経営学部

「現代マネジメント研究」 第8回 山田拓郎氏 講義

2017.07.19

2017年度 経営学部・シティカレッジ各務原/関 公開講座

第8回「ピンチをチャンスに変えた犬山のまちづくり」
犬山市長 山田拓郎 氏

2018年度は、中部学院大学・中部学院大学短期大学部がその構成の一部となっている「学校法人岐阜済美学院」が創立100周年を迎えます。
これに当たり、経営学部の前身である短期大学部経営情報学科時代から十数年間の伝統を誇る「現代産業研究」を新に「現代マネジメント研究」と改称して他学部・学科の教育課程の一部とするとともに、シティカレッジ関の皆様にも参加いただけるように生まれ変わった本講座も、今年度の最終回を迎えました。

山田拓郎氏
山田 拓郎氏

山田拓郎氏

今回は、7月19日、犬山市長の山田拓郎氏にお願いし「ピンチをチャンスに変えた犬山のまちづくり」と題してお話しいただきました。

氏は、「私は現在44歳で、若いとよく言われるが、でも、明日にしよう!とか、後でやろう!とは決して思わないようにしている。」と切り出されました。

市長になられたことと、このこととは決して無関係ではないようです。
もともと、旧い犬山城下町に住み、地域に関心が高く、歴史の好きな青年ということもあったのですが、ある年の参議院議員選挙で、ある候補者の応援手伝いを頼まれ、その活動の中で知り合った国会議員の方々などと話をする内に「ああ、俺が求めていたのは政治家の道だ、26歳になったら選挙に出よう」と心に決めました。、
早速、政治家の秘書になり、26歳で市会議員に当選したのですが、制約も多く、33歳で市長選挙に立候補しますが落選してしまいます。氏は、「今思えば、あの経験がとても良かった。ひどく落ち込んだが、原点に戻り再挑戦できた。そして今がある。」と語ります。十数年間の順風満帆と市長選落選が氏の今を作ったというのです。

さて、氏は、「市長として最も大きな行政サービスはまちづくりだ。」と断言します。
そして、これに重ねて、「ピンチの中にチャンスを見出し、チャンスを掴み、チャンスを生かす」と力説します。タイトルの「ピンチをチャンスに変えた犬山のまちづくり」は従って、「ピンチをチャンスに変えつつあるまちづくり」つまり道半ばだと言うのです。

では、道半ばで一体何が達成されているのでしょうか。真っ先に取り上げたのはやはり犬山城でした。現存する最古の城であり、国宝5城の一翼を担う犬山城は、一国一城令や濃尾地震・第二次大戦にも奇跡と思われる形で生き残り、所有者もかつての城主の子孫に落ち着くという数奇の運命を辿っています。また、この城に向かって主要道路が走る「タテマチ型」の城下町主要道がすぐ前まで迫っており、城と城下町が一体化して残っていることも大きな特徴です。

では、この犬山城とその城下町のピンチとチャンスはいつごろだったのでしょうか。氏は、これを、「昭和の賑わい期」、「平成の賑わい低迷期」、そして「平成の賑わい活性期」に分けて分析し、特に低迷期と活性期の転向点を、平成10年の道路拡幅一部凍結と16年の都市計画道路の計画変更をあげます。こうした一連の「市長のまちづくり哲学」こそ、山田市長が市長への道を歩み始めたときの原点だったのです。

会場の様子

片桐学長による挨拶

お金のかかる本町・新町の無電柱化、道路の美装化、どんでん館・しみんてい・余遊亭・旧磯部家住宅などの拠点整備、昔の民家に景観保存助成、空き店舗の活用などなどです。次から次へと打ち出された諸施策の中でも特に注目すべきは、「話題づくり」事業でしょう。「串グルメ」には40店舗が参加、「名鉄キャンペーン」では市と名鉄がwin winの関係で、吉本興業とのコラボでは「お笑い人力車」の展開などなど。平成16年に約19万人だった犬山城登閣者は27年には55万人へと激増しました。紛れもなく、犬山市への来訪者(入り込み客)が増えたのです。

しかし、すぐやる市長はこれで満足はしません。JRとのコラボ、来年の戌年(犬年)キャンぺーン、明治維新150年の明治村活用などの次の手を用意し、地域では、木曽川の河川空間や国道41号線を活かす「第5次犬山市総合計画改訂版」の策定などです。
山田市長ならではの施策により犬山市がさらに発展する予感を、参加者一同が大いに感じた90分でした。

(写真:今井信一、文:今井春昭)

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