中部学院について

「一羽のすずめ」

2011年5月2日「一羽のすずめ」
志村 真(中部学院大学短期大学部宗教主事)

聖書:マタイによる福音書 10章 29節
二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。

聖書 新共同訳 ©共同訳聖書実行委員会、©日本聖書協会

1

皆さん、お早うございます。今朝はスズメを通して、神さまという方の根本にかかわる事柄について考えてみたいと思います。

スズメはどこにでもいる鳥で、我が家でもスズメのさえずりがよく聞こえますし、電線や軒先に止まっているところはよく見かけます。以前、何かのテレビ番組で野生のスズメの寿命について紹介されていました。スズメの多くは半年から1年、どんなに長くても3年の寿命だということを聞いて、スズメも大変なんだなあ、と思った記憶があります。捕獲されて飼育されたスズメでは15年も生きたという記録があるそうで、それと比べるとやはり野生生活は激烈だと思います。

2

イエスが生きていたパレスチナのガリラヤ地方でも、スズメは多く生息しておりました。スズメは、ユーラシア大陸の西端のポルトガルから東端の日本まで幅広く生息しているそうで、西アジアに位置するガリラヤにもスズメは当然いたわけですね。先ほど読みました聖書にはこうありました。かなりの信ぴょう性をもってイエスが語ったと考えられている言葉です。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」

イエス時代、スズメはタンパク源としては最も安い、庶民にとって身近なものであったようです。ある解説者は次のように記しています。「雀は市場で最もなじみの品であり、ずば抜けて最安価の鳥であり、庶民の焼き肉用鶏肉であった。ローマのアース(アサリオン)は流通貨幣で、2アースで一日分のパンが買えた。」(U.ルツ『マタイによる福音書2』教文館、1997年、170ページ) ここで出てくる貨幣単位を今日の日本円に換算しますと、スズメ1羽は約150円ということになります。(スズメの他にもタンパク源はありました。干し魚とか鳩、そしていなごも食べました。植物性たんぱくとしては、木の実や豆類がありました。いずれにしても、粗食であったことは間違いありません。)

3

さて、ここからが今朝私たちが取り組むべき課題です。今から申し上げることは、国際基督教大学名誉教授の並木浩一先生がわざわざ送ってくださったご自身の説教集(『人が共に生きる条件』新教出版社、2011年)の中で展開しておられることで、それに触発されまして私自身も少しく調べたり、考えたりしていることでもあります。

実は現在、このイエスのことばの解釈は私が気付いた範囲で言えば、三通りあります。しかもそれらは、かなり異なった解釈となっています。そのことを聖書翻訳に確認してみましょう。今日、わが国のキリスト教会で用いられている翻訳は三種類です。そのいずれもが先ほど読んだ通りの翻訳です。それではなぜ、解釈が三通りあると言えるのでしょうか。それは研究者による個人訳や外国語の翻訳に別の解釈が示されているからです。

岩波書店が刊行しました比較的新しい翻訳では次のようにされています。「しかしそのうちの一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない。」実は、ギリシア語原文を直訳すると、この岩波版のようになります。この直訳を採用した翻訳が、英語で言えば、『欽定訳(KJV、1611年初版、1769年修正版)』で「one of them shall not fall on the ground without your Father.」と訳しました。アメリカのカトリックの翻訳であるASV(1901年)もほぼ同様です。

新共同訳のように「だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」としているのが、アメリカのプロテスタント教会の多くで長い間使われた『改訂標準訳(RSV、1952年)』です。「And not one of them will fall to the ground without your Father's will.(あなたがたの父の意志なくして地に落ちることはない)」と訳し、これが現代の日本の三翻訳に決定的な影響を与えました。けれども、このRSV の再改訂版『NRS(1989年)』ではこれを修正し、「Yet not one of them will fall to the ground apart from your Father.(あなたがたの父を離れては地に落ちることはない)」としています。明らかに解釈を変更したのです。

もう一つの翻訳は、研究者たちが信頼を寄せる『エルサレム聖書(JB、仏語1956年、英語1966年)』で、「And yet not one falls to the ground without your Father knowing.(あなたがたの父が知ってくださることなく地に落ちることはない)」としています。ドイツの重要な聖書解釈書は、このところを注解して、「神が知り給わずに、一羽の雀といえども、罠にかかって地上に落ちることはない」(J.シュニーヴィント『NTD聖書註解 別巻 マタイによる福音書』NTD刊行会、1980年(原著1964年)、276ページ)としましたが、これは『エルサレム聖書』と同じ理解と言えるでしょう。

4

そこで、私たちはこの一文をめぐる解釈の相違について考え、自らの理解を展望したいと思います。先ほど申し上げたように、礼拝用の日本語聖書はいずれも「あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」とされていました。この翻訳に表現されている「あなたがたの父」すなわち「神」はどのような姿なのでしょうか。この表現では、スズメの一羽が地に落ちる。すなわち人の手にかかって落とされ、食べられる。あるいは人が何らかの理由で命を落とす。そのことが起きるのは「神が許したからだ」ということになってしまいます。そうしますと、この「神」は暴君と言いますか専制君主と言いますか、理不尽な存在になってしまいます。神によって造られたすべての生き物は、その神の生死の決定をただ厳粛に、あるいはいやいや受け入れるしかない、ということになります。

この度の東日本大震災で大変な数の方々の命が奪われ、多くの方々が未だ行方不明となっています。残された被災者はそのことを「神が許したこと」として受け入れなければならないのでしょうか? あるいは突然の病や事故で、思いもよらない不幸にまみえる方もおられます。それは「神の許し」のもと、起きたことなのでしょうか? そんな理不尽なことがあってはなりません。

もちろん、人は命を自由にすることができません。ですから、「命は神の領域である」という言い方がされます。しかし、それは「神」が人や生物の命をどうにでもできる、いわば「生殺与奪」という意味ではないと思います。そこで、このイエスのことばをどのように解釈し、翻訳するかが大切になってきます。先ほど紹介しました岩波訳(立教大学の佐藤研先生による)では、「しかしそのうちの一羽すらも、あなたたちの父なしに地上に落ちることはない」と訳文を示した下に、これまでの翻訳を批判した上で注記として、「すなわち、地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる、の意」としています。この翻訳、つまり解釈は驚きと言いますか、息を飲むと言いますか、深く考えさせるものです。

ここに一羽のスズメがいて、人間の手にかかって地に落ちようとしている。その落下しつつあるスズメを神は支えようとし、しかしまさに地上に落とされるそのときも神はスズメと共に地に落ちてくださっている、というのです。もっと露骨に言えば、人の手に捕えられ、羽をむしられ、焼き鳥にされて食べられようとしている。そのスズメと共に神は焼かれてくださる、というのです。話しがスズメの焼き鳥ですので、ぎょっとしてしまいますが、先ほどの『エルサレム聖書』の理解はやや穏やかな感じがいたします。「あなたがたの父が知ってくださることなくして地に落ちることはない。」すなわち、地に落とされ、焼かれ、食べられてしまうスズメではあるが、その命を神は目をとめて覚えていてくださる、という受け止め方です。

けれども、私は「地に落ちる時は神が支えつつ、共に落ちてくれる」という解釈を今後、思い巡らして行きたいと考えています。そこには、次のようなメッセージが響いているように感じるからです。私たちがたとえどのような境遇の中を歩むとも、神は共に歩んでくださる。共に苦しんでくださる。一羽のスズメと共におられる神なのだから、私たちと共にいてくださることは確実で疑いようのないことだ。そう叫ぶイエスの声が響いているようです。

ページの先頭へ戻る