中部学院について

教員紹介(小島 和貴)

氏名 小島 和貴(こじま かずたか)
職名 人間福祉学部准教授
研究テーマ 近代国家と衛生行政
自己紹介 (経歴) 大学院で研究生活に入って以来、一貫して健康と行政の問題を歴史的に追いかけてきました。健康はなにものにも代え難いものであると思います。しかし、健康は個人の努力だけでは達成できません。そこには、各人の努力に加え、国家の施策が必要とされます。そして個人の健康の問題に国家として介入することの必要性が求められたのが日本の場合、明治維新以降ということになります。そこでは衛生行政の問題として議論がなされました。 維新以降、健康問題に対する国家の必要性を唱えた人物として注目されるのが長与専斎(天保9-明治35年、1838-1902年)です。長与は天保9年、肥前国大村に生まれました。祖父俊達は西洋医学に基づいた種痘の実践者としても知られています。この祖父の影響もあり、在藩時は漢学、そして安政元年には大阪に赴き、適塾においては蘭学を学びました。福沢諭吉とは適塾でともに学んで以降、親交を続けていたことはよく知られるところであります。長与がこの世を去ったとき、自ら主催する『時事新報』の社説に長与の回想を論じたことは、福沢と長与の距離がいかに近いものであったかを物語っているとされております。  適塾にて蘭学の素養を積み、西洋医学に対する理解をもつ長与の存在は、わが国の衛生行政の導入にとって幸いでありました。明治4年には、不平等条約の改正、西欧の制度文物の調査を目的に岩倉遣外使節団は派遣されることになりますが、その際、長与は文部大丞理事官随行として同使節団に参加することになりました。当初、明治政府は西欧における医学教育制度の調査を目的に長与を加えたのでありますが、米国、英国、独逸等の諸国を調査する中で、長与自身、「ヘルス」、「サニタリー」、「ゲズンドハイツプレーゲ」等の言葉に接し、西欧には「国民一般の健康保護を担当する特殊の行政組織」が存在することに思い至りました。この特殊の行政組織こそ、流行病・伝染病の予防を初めとして、貧民の救済、上下水の管理、人間生活の利害に関する事務を扱う「一団の行政部」であり、「人生の危害を除き国家の福祉を完うする所以の仕組」でありました。長与はここに「文明」を見た後、自ら「畢生の事業」として衛生行政の調査を決意することになりました。近代衛生行政のわが国への導入はここに端緒を開くことになります。
メッセージ  明治期、日本の政府を悩ませ、日本社会を混乱に導いたものの一つに伝染病、とりわけコレラの流行が認められます。コレラは、明治維新以降、明治10年に第一回目の流行をみせ、同12年、15年、19年と被害者を出し続けました。とりわけ被害の甚だしかったのが12年と19年の流行時であり、それぞれ、10万人以上の人間を鬼籍へと追いやることになりました。こうしたことは従来等閑に付されてきた事柄でありますが、歴史学者の色川大吉氏はこの明治国家と伝染病の問題に関してかつて次のように指摘しました。  内務省はこのときはじめて(明治12年の流行時-筆者註)、外国人医師や日本人医師をまねいて中央衛生会とうい組織をつくり、地方衛生会と連絡をとって衛生行政に一貫性をもたせた。・・・・(中略)・・・・しかし、ひとたび流行がやむと、政府はこの問題を忘れた。忘れたかのように予算をだししぶった。それどころか、伝染病のさいの貧民救済補助費を、明治十七年かぎり廃止してしまった。皇室費や軍備拡張費の増額で財源が不足したことが理由であった。  多くの歴史書に観えるように戦争の悲惨さを取り上げる業績は枚挙に遑がございません。もちろんだからといってそうした著書等の価値が下がることにはならないし、そうしたものから多くを学びたいと考えております。しかし、色川の指摘を考えるならば、問題としなければならない事柄は様々であり、われわれの世界は実に多面的であるということではないでしょうか。私は、社会科学を専攻しております。そのため、空間的な視点、時間的な視点を問うことなく、「社会」に対する問題意識が常に求められる傾向にあります。色川の歴史解釈に対する評価は別の機会に行うとして、ここでは同氏の強烈なまでの問題意識に注目したいと思います。  ところで大学院での研究領域は日本政治史・日本行政史に位置づけられますが、大学の教壇に立って以来、行政学、地方行財政、行政計画、福祉行政論、公共政策論、社会保障政策、日本政治論、日本政治史等の科目を担当してきました。研究活動を続けていくと専門性が必然的に高くなりますが、できるだけ研究の「すそ野」は広くするよう努力したいと考えております。

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